雨にぬれても

その時々の心の残ったものの記録が主な内容になるかと思います。音楽に関する話が多くなりそうです。

音楽史観について

先日、「100年のジャズを聴く」という本について、

「ジャズの「正史」はひっくり返されてます。「頑固なジャズおやじ」は読んではいけない。これは最近ジャズを聴きだした、これからジャズを聴いていこうという人のための本です」

という読者のレビューがネット上にあがり、そのレビューを著者3人のうちの一人がtwitterでRTして話題になっていた。

僕も本自体は未読ながらそのレビューを面白く読んだのだけど、それについて、僕がtwitterでフォローしており、長くジャズを聴いているであろう方(仮にA氏とする)が「ジャズの正史ってなに?」「無用な世代間の分断を生まないでほしい」と憤っていた。

そこでその件について少し考え、自分の言葉で拙いなりにまとめてみたいと思う。

 

例えば、40年前に制定されて、その時代においては好意的に受け止められた法律があるとする。その法律が40年という時間を重ねる中で、時代にそぐわなくなったり、運用のされ方に変化が生じて好ましくないものになってしまう、というようなことは世の中において当たり前に起きている。歴史上のとある出来事がどういう意味を持つのかは、それが起こったその瞬間に確定するものではなく、時間とともに変容していく。昨今の特定秘密保護法のようなものも、10年20年経った時にどういった意味を持つ法律として機能しているのかはまだわからない。

つまるところ「歴史」というものは、「いつどこで何が起きた(うまれた)」という時間を経ても変わることのない”出来事”と、時間の経過とともに意味合いに変化が生じてくる”出来事の意味合い”を、ある時代の視点から切り取ったものに過ぎないだろう。

これは音楽に関してもそのままあてはまり、「いつどこで発表された」という出来事としての作品と、時間の経過ととも変化が生じてくる作品の意味合いを、その時代時代の視点、あるいは個人の視点から切り取ったものがその時代の、あるいはその人にとって音楽史観となる。

日本においては1950年代くらいから評論家の手によってジャズの歴史に関する本が出版されているようだ。おそらく、最初のレビューに出てきた”ジャズの「正史」”というものが何を指していたかというと、そういった過去の本や評論家の口で語られ、比較的広く普及した「当時の視点で切り取ったジャズの歴史」ということになるのだろう。しかしながら、作品の持つ意味合いが時間とともに移ろっていくものである以上、「正史」という言葉を選んだのは正しくなかったのではないかと思う。

さて、ここ数年、日本において2010年代の視点から新しいジャズの歴史観を描くような試みが行われている。若く優秀なミュージシャンたちが作る新しい音楽、そしてそのミュージシャンたちが参照し、新たな意味を帯びた過去の音楽を現代の視点から捉え直すようなその試みは僕のような若い(といっても既に31歳だが)人間からみると非常にダイナミックで価値のあるものに思える。

「過去の評論家が描いた歴史観や、自分の中で更新がとまった歴史観のまま、上から目線で新しいものを否定する」というステレオタイプなイメージの「頑固なジャズおやじ」が実際にどの程度いるのかははっきりとわからない。

ただ、A氏のようにずっといちリスナーとしてジャズを聴き続け、自分の耳で自分の中のジャズ史観を更新してきた人にとっては、先に書いた新しい試みと必ずしも意見の一致をみるわけではないだろうし、それは仕方のないことだとも思う。そういった人たちを「頑固なジャズおやじ」と呼んで無用な断絶を生んでしまうのは本当に意味のないことのように思える。