犀の角のように

H30年7月9日より勉強ブログになりました。32歳からの学び直しの記録です。

感情って

ブログのタイトルを現在のものに変更し、早一ヶ月半。

更新をあまりしていない理由はざっくりと2つあって、

ひとつは、「ブログを書いている暇があるならやりたいことがたくさんある」ということ。

もうひとつは、「僕の今やっている勉強がブログに書くに値しないものである」ということ。

実際に今やってることといえば、Twitterを見るか、本を読んでいる時間以外のほとんどの時間を英語に費やしているというだけのことだ。

少しずつ上達しているのを感じているし、「英語に触れている時間」というものにストレスをほとんど感じなくなってきており、最近では”勉強”をしているという感覚はほぼない。自分が「大人が話している少し難しい言葉を理解しようと背伸びしている幼稚園児」になったような感覚に近いかもしれない。

ただ、今英語に多くの時間を割いていることは、物理を効率よく学ぶために算数や数学を先にやっているようなものだと考えているし、早く英語使って英語以外の何かを学んだり、情報をちゃんと得られるようになりたい、というところが当面の目標になるかと思う。

 

今回の投稿のタイトルを「感情って」とした。「心って」と言い換えてもいい。

少し話は逸れるが、僕は地方で介護福祉士をしている。

その職場は特別養護老人ホームなのだけど、そこの90歳くらいの認知症の男性入居者は、時折何の脈絡もなく大声で「天皇陛下バンザーーーイ!」と叫ぶことがある。

その老人にとって、叫んだその言葉が何歳までの”リアル”だったのかは知る由もないが、おそらく認知症の症状により、60年、70年ほど前の自分に戻って叫んだと考えるのが自然かと思う。こういったことは認知症の方と接しているとよくあるので、それ自体特段驚くことではない。

また、同じような年代の女性入居者が、手に取った本の中の昭和天皇の写真に手を合わせ、涙を流しているのを目にしたこともある。

昭和天皇の戦争責任論という話で、その責任の有無についての意見をこの場で述べるつもりはサラサラないが、GHQが何故占領政策を円滑に行うために皇室を残し、その後、天皇が”象徴天皇”という物凄く曖昧な役割を持つに至ったのか、あるいはそうせざるを得なかったのかが、こういった老人たちの行動から深く実感出来、その意味を飲み込めるようになった。

最近の勉強という話で言えば、英語が出来るようになってきていることよりも、こういったことに想像力が回るようになってきたことの方が個人的には意味があることだと思っている。

こういった事柄からの学びを端的に言葉にするならば「世界は想像以上に感情で動いている」という話かもしれない。

”感情”とは何だろう?

誰かを好きになったり大切に思うのも”感情”ならば、

誰かを傷つけたり貶めるのも”感情”だ。

合理性から外れた行動をし、(例えるなら、AIがはじき出した統計的に合理的な判断から外れたような、現在においてまだ価値の発見されていない領域で情熱を燃やして)新しい何かを見つけ得るのも”感情”ならば、

何の合理性もないことを繰り返して、とんでもない過ちを犯してきた人間の歴史の多くの出来事も”感情”によるものだ。

僕個人の話でいうと、

ライブハウスで素晴らしいライブを観て心を奪われるのも”感情”ならば、

そのライブの直後、そのライブハウスの外の土砂降りの雨を見て思わず舌打ちしたくなるのも”感情”だ。

 

「自分の(あるいは個人の)感情はとても大事なものだ」という感覚は勿論あるけれど、先程のライブハウスの例にあるように、「わずかなことで乱高下する自分の感情というものも心底あてにならん」という感覚も同時にある。

自分の中で全然答えの出ていない話だけど、改めて感情って何だろう?と思う。