犀の角のように

H30年7月9日より勉強ブログになりました。32歳からの学び直しの記録です。

cero @金沢 June 13th,2018

ceroの金沢公演に行ってきました。

Obsucre Rideを軽々と更新していく新譜の出来から想像はしてたけど、本当に全然別物のバンドのようになっていて、その進化の速さに驚かされました。

なので、ライブを観ながら、そして観終わってから考えていたことを記録として残しておこうと思います。

 

まず、僕がceroをしっかりと聴くようになったのは「Obscure Ride」からですが(それ以前の作品はそこまでのめり込みませんでした)、そのタイミングでceroに参加したのが藝大三人組、小田朋美さん、古川麦さん、角銅真実さんです。発表の時点で小田さん、古川さんのことは知っていてファンだったので結構驚いた記憶があります。ものすごーく雑な括りでいうと、ストリートのceroハイカルチャーの藝大勢が加わった、そんな印象でした。単に演奏の腕を買われたサポートミュージシャンって話なのかなとも思ったんですが、ふた(Obsucre Ride)を開けてみると全然そういう訳ではなかったですね。

そして、新作「POLY LIFE MULTI SOUL」と今回のライブにおける藝大組3人の役割は完全にサポートという枠を超えて、メンバーと言ってもいいような関係性に思えました。新作のレコーディングにおいても、ceroの3人が用意した雛形をスタジオで全員でアレンジして形にしていったそうです。その現場は、譜面を読めないメンバーもいれば、音楽の理論的な話をツーカーで喋っている人たちもいる、という環境だったようです。それもあってボーカルの髙城さんは音楽理論を勉強した、とインタビューで言っていて「学ぶことの大切さ」という話でもあるんですが、そもそもceroのメンバーと藝大組とでは音楽的出自が違うのでそういうところの差はあって当然だと思うんですよね。ceroを見ていてフレッシュだなと思うのは、ceroというバンドにおいてはそこの能力差がそこまで問題視されていないというか、ダイバーシティとして自然と了承されていて、その上でスタジオ内でも平等に、民主的に議論が行われ、お互いのいいところを出し合って物事が進められていたような印象を受けるところだと思います。そして、オリジナルメンバーもサポートのメンバーも全員がceroとしての活動を楽しんでいる。そういうあり方が今の時代において本当に魅力的に見える気がします。

 

ceroは単純に自分達に足りないものを補う意味で藝大勢を入れたのかもしれませんが、同じようなことを蓮沼執太さんはおそらくもっと自覚的に、明確に目的を持ってやっているように思います。

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これは蓮沼執太フィルの16人のメンバーですが、年齢も音楽的出自も読譜力や理論への明るさも完全にバラバラなように思えます。更に、これにオーディションで選んだ10人を加えた26人で蓮沼執太フルフィルとして今度ライブを行うようです。

「26人くらいでの演奏」という形式を考えたとき、1管編成のオーケストラが思い浮かびます。クラシックは作曲家の譜面と指揮者の指揮というトップダウンの指示に、高度に訓練された演奏家が応える、という音楽です。そしてジャズのビッグバンドも基本的にはそういったものです。(ビバップ以降のジャズも、演奏家の楽理の理解や読譜力、演奏力がある程度揃っていることを前提として成り立っています)つまり、これまで大人数で音楽をするときは、トップダウンで意思決定コストを下げて、全員の技量やバックグラウンドを揃えることでコミュニケーションコストを下げて、物事がスムーズに事が進むようにしていた訳です。

それに対して、蓮沼さんがやろうとしていることは正反対です。

全員の出自はバラバラ、技量も揃ってなくて譜面を読めない人もいる。そんなメンバーたちとコミュニケーションを取りながら一つの音楽を作る訳です。

蓮沼さん自身に明確に作りたい目標物があるなら、こんなクソめんどくさいことはやらないはずです。つまり、蓮沼さんは音楽を通して民主主義をやろうとしてるんだろうと思います。これは蓮沼さん自身に聞いてみないとわからないですが、改めて民主主義の意味を問い直したり、あるいは民主主義の価値を再確認しようとしてるのかもしれません。

 

意思決定の話で言えば、企業でも似たような話はあります。

これは今急成長しているNetflixの社内風土についての記事です。

シリコンバレーのようなところでは様々な人種の人が集まりますが、社員全体で情報を共有し、それぞれが間違いを恐れずに意見を表明して、「会社全体がドリームチームであるようにすること」を目標に掲げています。

 

こちらは中国(現在はマルタに移った)のBinanceと並んで世界トップの暗号通貨取引所であるCoinbaseの意思決定法です。責任の所在を明確にするために意思決定者を立てていますが、こちらも情報を共有して意見を募り、民主的なプロセスで意思決定をしています。

 

若くてイケてるミュージシャンと今イケてる企業で似たような傾向がみられるのはやっぱり時代性というものなのかなという気はします。

 

今の日本という国に目を向けたとき、民主主義そのものが揺らいでいるように思います。国民の多くは政治に興味がなく、そうでない人も政治を語ることをどこかタブー視していて、政治家は公文書を改竄しても責任を取りません。

別に中央集権的にトップダウンで物事を決めるのが全部悪いわけではないです。山下達郎バンドはどう考えても山下達郎トップダウンですが素晴らしいし、ジョブズイーロン・マスクもすごい。

ただ、バンドはリーダーがクソになれば解散すればいいし、企業のトップがクソになれば従業員がやめればいいですが、独裁国のトップがクソになったらそう簡単には止まりません。その反省として、三権分立をして、議会で喧々諤々の議論をして、選挙に税金をたくさん使う、という大きなコストを支払って今の民主主義というシステムを運用していることの意味をちゃんと考えたい。

そして、そんな時代だからこそ今のceroや蓮沼執太の音楽が意味を持って感じられるんだろうと思います。

 

最後に、ceroの新譜に入っている「レテの子」の元ネタである山下達郎「アトムの子」の歌詞の一部を引用させてもらいます。(怒られたら消します)

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